有害サイトフィルタリングはキャリアの首を絞めないか

6月の有害サイト規制法成立を受け、いくつかのケータイコミュニティサイトがこのほど”第三者機関”からシロのお墨付きをもらったそうだ。

http://mainichi.jp/life/electronics/news/20080829mog00m300030000c.html

今の青少年のネットの入り口が圧倒的にケータイである、ということで、ケータイサイトを封じてしまえばよかろう、ということなのだろうが、何とも場当たり的な対応だと思わざるを得ない。

すでに、この法律については憲法に定める「表現の自由」との兼ね合いで議論が起きているが、それ以前の問題として、こうした「有害」なものをこの世の中から削除するという壮大な(?)構想に基づいたとも言えるこの法律の立法の思想が、そもそも理解できない。

古今東西、いくら取り締まろうと、サイトに限らず「有害」なものは手を替え品を替え存在し、そこで一定の被害者というかそれにハマってしまう人が出るという事態を、その歴史を、法律一つで変えられるという発想(と外形的には理解される)の浅はかさを指摘しないわけにはいかない。いくら規制しても抜け穴を突いてくるのが、こうした有害なものの常である。

そのうえ、ケータイサイトの外側に広がる通常のサイト空間に対しては、パソコンメーカーにフィルタリングソフト搭載を義務づけるだけで事実上野放しということらしい。(条文を読む気になれないので報道記事だけをもとに書くが)頭隠して尻隠さずなザル法でもある。

しかし何より懸念されるのは、仮にフィルタリングがうまく機能したとして、そういう有害サイトのない”温室”で育った青少年が、大人になったときに果たして大丈夫なのか、ということ。有害無害・有益無益がごちゃごちゃに入り交じったネットの世界で、そういう温室育ちのヤワな大人たちがやっていけるのか。それを恐れて、いつまでも監視員付きのプールのようなケータイサイトという閉じた空間で過ごすのか。いずれにしても好ましい状況とは思えない。

それでなくてもケータイサイトに引きこもる傾向にあると感じられる20代以下の人たちを、保護の美名のもとに座敷牢につなぐようなことにならないか。もちろん、そうなればキャリアさんには短期的に一見好都合なのかもしれないけれど、所詮今さら通話でARPUを高めることなど期待薄なのだから、どれだけデータのトラフィックを増やしてARPUを稼ぐかを考えなけれないけない時期に来ているのである。一般にケータイサイトのトラフィック量がPCサイトに比べて少ないことを考えると、こういうフィルタリングをキャリアが支持し、ケータイサイトの中にユーザーを囲い込んでおこうとするのだとすれば、長い目で見て、今の若年ケータイユーザーとともにキャリアも滅びていく道を選んでいるのだとしか、私の目には映らない。

裏返せば、キャリアが将来の伸びしろを確保しようと思うなら、ケータイサイトを閉鎖空間にすることを段階的にでも放棄して、有害サイトフィルタリングは端末側のソフト設定でおこない、ユーザーの選択に任せていくという方針に転換していく方策を考えるべきではないかと思う。そうなると、キャリアはただの”土管屋”になってしまう、という危惧は理解するのだが。

世の中に、有害なサイト、危険な場所、ついていってはいけない人がいるという前提、それらがなくなることはないという前提で、いかにしてそういうマイナスを見分け、危険を回避するかというリテラシーの教育に、大人はカネと時間を使うべきだ。

そのうえで、閉じていないネットの世界に子供たちを誘い、危険を避けつつ奔放に歩き回る楽しさを教えるべきではないのか。

先日聞いていたポッドキャストのニュースで、たしかオーストラリアだったと思うが、ウィキペディアを教材として子供たちにメディアリテラシーの教育をしていると言っていた(残念ながら、いつのどのニュースか、探せなかった)。ウィキペディアが教材、というのを聞いて、さすがだなと思った。そういう海外の子供たちと同じ時代に、日本の子供たちも生きていくのだという視点を忘れたくない。