なぜiPhoneだと使ってしまうのか、ケータイだと使わないのか

iPod touchの頃から数えると、こういうモノを使い始めてからそろそろ1年になる。使って自分の生活の何が変わったのか、ということを突き詰めて考えてみると、何より「パソコンの出番が減った」というところに行き着く。

touchを買って早々に出かけた海外には、ノートパソコンを持っていかなかった。その代わりtouchと、有線LANの場合でもtouchを使えるようにAirMacExpressとを持って行き、結果として不自由せずに帰ってきた。ちょっと寄り道をする現地ツアーを見つけたり、その場で手配した飛行機のチケットもtouch経由で予約から購入まで済ませ、プリントの必要があるときだけホテルのビジネスセンターを利用すれば十分だった。

今は空港でのセキュリティチェックがうるさいので、パソコンを持っていると毎回カバンから出さなければいけないことも多く、それが原因で危うくパソコンを失くしかけた経験がある。それを思うと、パソコンを持たずに身軽に旅に出られて、パソコンと同じくらいのことができ、セキュリティチェックの煩わしさから解放され、しかも仮に失くしたとしても一般的なノートパソコンより安いiPod touchは、ほぼ買った瞬間からiPodというよりもモバイルインターネットデバイス(MID)という位置づけだった。

自宅でも、家族との会話の中でちょっとした調べものをするといったシーンはよくあるが、わざわざリビングから自室に戻ってパソコンに向かうということが急激に減った。調べることを後回しにして忘れてしまうこともなくなるし、会話を中断する必要もない。これは、小さいようで大きな変化だと感じた。

これがiPhoneになることで、旅先とかリビングに限らず圏外でなければどこにいても、ということになった。無線LANの飛んでいない仕事先でも、「あとで調べておきます」と言っていたことの大半はその場で調べて解決されるようになった。

その意味においては、iPhoneiPod touchの違いはあまり本質的に大きなものではない、とも言えるが、iPhoneを使い始めてから案外そうでもないかと思ったのが、以前のエントリーに書いた「真の常時接続」ということ。

今日も、打合せ場所を調べてから外出したところ移動途中で場所が変更になったので、電車の中からiPhoneで新たな打合せ場所を調べ、駅を出たところからはGPSを使って迷わず目的地にたどり着くことが出来た。

よく考えると、これらのことは「和式ケータイ」でも出来てしまうことがほとんど。なのに、iPhoneだと使おうと思えて、和式ケータイだとそう思えないのはなぜなのか。

ひとつは、ケータイはあくまでケータイで通話プラスアルファの存在である、という自分の固定観念から抜け出せていないから、ということが考えられる。iモード以前からのケータイユーザーである私には、ケータイのメールもウェブも、どうにも窮屈な簡易版・機能制限版というiモード初期の印象を引きずっているから、というのはあるだろう。

それもあるが、もっと大きいのは、やはり使いやすさのデザインにあるのだと思う。同じことが出来るとはいえ、iPhoneと和式ケータイでは、出来るまでに要する時間と慣れがまったく違う。iPhoneであれば直感的に理解できるものが、和式ケータイだとマニュアルと格闘しなければ分らない、ということを、iPhoneで出来ることをケータイでトライしていくなかで、現実に何度も経験した。

これも、ケータイよりパソコンを先に使っているという私の世代のバイアスなのかもしれない、とは思う。パソコンより先にケータイを使った世代は、それが当たり前になっているから、私のような感想は持たないのかもしれない。

なぜiPhoneだと使ってしまうのか、は、継続的にもう少し時間をかけて考えてみたいと思っているが、今日の時点までで思いつく理由は、この2つ。同じことが出来ても「使いやすさ」が違うというのが非常に大きな差なのだ、ということが根底にある気がする。それは、MS-DOSパソコンとWindowsパソコンとの違いや、マニュアル車オートマ車の違いにも似ているかもしれない。