「グーグルvsアップル ケータイ世界大戦」を読む

やや遅ればせながら、「グーグルvsアップル ケータイ世界大戦 ~AndroidとiPhoneはどこまで常識を破壊するのか」を読んだ。

技術評論社から出版されていることでも想像がつくように、ある程度、携帯電話業界についての知識がないと理解できない内容かもしれない。*1

iPhoneについての章は報道等で既知の内容であるし、Androidケータイ1号機が来週アメリカで発売されるので、Androidに関する内容はもうすぐ賞味期限がきてしまうかもしれないが、第6章「世界と日本のケータイ業界はどうなっていくのか」は、これからの日本のケータイ事情がどうなっていくかを考えるきっかけとして一読に値する内容だと思う。この章を読みながら考えたことを書き留めておきたい。

これまで、日本のケータイ業界は、iモードをはじめとするキャリアによって囲い込まれたネットの世界を前提に成立してきた。著者が指摘しているように、こうしたキャリア主導型の垂直統合型のビジネスは、他国のキャリアがうらやましく思うものである、ということはその通りだろうと思うし、今後とも他国のキャリアがそうした立場をなんとか得ようとする努力は続くのだと思う。

しかし、やはり著者が指摘するように、外国においては端末メーカー主導型のビジネスが現在の主流。この先、諸外国のキャリア側がどんなに努力をしても、少なくてもこれまでの日本のキャリアのような揺るぎない地位をこれから占めるようになることは難しいのではないだろうか。

日本では、PCのネットの普及にそれほど遅れを取らない早い段階(2000年頃)で、iモードが先鞭を付けた、キャリアが囲い込んだネット空間が成立した。そこに、そもそもクレジットカード自体に抵抗があり、それをネットで使うことにはなおさら抵抗のある日本人に、毎月の通信料とあわせて安心してお金を払わせるという課金プラットフォームをキャリアが用意した。これによって、ケータイネット空間を前提としたコンテンツビジネスが活性化し、ユーザー側が囲い込みを意識しなくてすむくらい豊富なコンテンツが揃っている。これが、2000年代の前半から半ばにかけて起こった。

しかし皮肉なことに、この時期はちょうど、囲い込まれていない本来のネット空間が大きく進化した時期でもあった。90年代の、Yahoo!がようやく立ち上がったというレベルからテイクオフし、物販やオークション・旅行予約サイトをはじめ、ネットを活用したさまざまなビジネスがうまれ、それが一般化した。サイト数が爆発的に増大し、それに追いつけなくなったYahoo!への解決策をひっさげてGoogleが検索サービスを始めたのもこの時期だ。

諸外国では、日本のように囲い込まれたケータイ用のネット空間が成立しないままに、一足飛びにPCを前提としたネットの世界を直接モバイルで利用しようとし始めている。AndroidiPhoneが、PCと同じサイトをPCと限りなく同じ感覚で見られるブラウザを使って利用できるようにし始めている、ということだ。

日本でiモードが「囲い」の中で育った当時のように、囲いの外が囲いの中と同じかそれ以下の充実度、という状況ではないという点で、これからモバイルネットが本格的に立ち上がる諸外国では、日本とスタートラインが違うのである。

メールにおいても同じことが言えるということは以前のエントリーにも書いた通りで、これまでケータイメール=SMSであった諸外国のユーザーにとって、これからのモバイルネットでは、iモードメールのような「囲いの中」の中途半端なメールを飛び越えて、PCと同じメールアドレスを使い始めるのが当たり前になるだろう。

この流れに逆らって、諸外国で、キャリアが主導権をとって囲い込んだケータイ用ネット空間を新たに作ろうとしたところで、極めて限定的な成果しか得られないと考えるのが妥当ではないか。

そうなると、モバイルにおけるネット空間は、世界の流れとしてはPC前提のネット空間と同一か、区別があったとしても極めて緩やかなものになると考えるべきだ。

そういう世界のモバイルネット空間で、日本のコンテンツプロバイダがビジネスをしていこうと思うなら、言語対応の問題は当然として、まず囲い込まれた日本のケータイネット空間の外に出なければ、ビジネスチャンスを逃すことになる。

また、日本のキャリアとしては、囲い込まれた空間の中だけに限らず、囲いの外でも通用するクレジットカードより安全安心な課金プラットーフォムを少なくても日本のユーザー(契約者)に対して提供し、囲いの外のコンテンツプロバイダや、さらには外国のコンテンツプロバイダへの支払いにも使ってもらうことで、「囲い」の外にも課金ビジネスを広げていくための技術開発とビジネス開発がキーになるのではないだろうか。この点、本書ではここまで突っ込んだ議論はされていなかったが、日本のキャリアとコンテンツプロバイダが生き残る方策ではないかと思うのだ。

また端末については、著者が指摘するように、日本のメーカー・キャリアは、既存のユーザーを前提に、過度にユーザーオリエンテッドな端末作りをしていると思う。その結果だと思うが、一(いち)ユーザーとして使っていて、一貫した開発思想を感じられないというか、作った人の顔が見えない端末になってしまっている。

そういう端末を長らく使ったあとで、はじめてiPhoneを使ったときに私が思ったことは、”作った人の存在を感じる”ということだった。つまり、こういう操作をしたら次にはこう動いて欲しいよね、と思うと、端末が実際にそう反応してくれる、ということを感じるのだ。端末の作りや動きに一貫性があり、大げさにいえば設計開発者の人格を感じることが出来る。

日本の端末は、おそらく、多数の人がそれぞれの立場から様々な注文をつけ、それを可能なものは全部取り入れたために、人に例えれば、能力は高いが”人格”が分裂・崩壊している、という状態になってしまっている、と言ったらいいすぎだろうか。

どんなにユーザーにおもねったところで、見捨てられる時には、あっさりとユーザーに裏切られるのだ。あれほどポケベルを激しく使っていた十数年ほど前の当時の10代女性たちが、その後どのような行動をとったか、その結果ポケベルビジネスがどのような結末を迎えたのか、思いかえしてみるべきだろう。

それなら、万人に受けようとして結局誰からも支持されなくなることを恐れるより、絞り込まれたターゲットユーザーに確実に支持されるモノ作りをすべきだろうと思うし、それをビジネスとして成立させるには、絞り込んでもそれなりの数のユーザーを期待できる、ワールドワイドでの展開ということが一つの回答になるかもしれない。iPhoneは、2代目のiPhone3Gを世界70カ国で売ることで、この方法をとったのだと考えられる。

もちろん、iPhoneの二番煎じをやっても意味がないが、ビジネスをどのように成立させるか、という点で、ヒントにはなるはずだ。

もちろん、「囲い」外しは段階的にやっていかないと、今のビジネスが突然死してしまうかもしれないけれど、ずっと「囲い」の中に安住していると、キャリアもコンテンツプロバイダも端末メーカーも”ゆでガエル”のように緩やかな死を迎える可能性は高いのではないかと思うし、そこが私の一番の懸念なのだ。

*1:そのためか、amazonのユーザーの書評は、いずれもちょっと的外れな印象である。