iPhoneが提供する価値の種類 〜なぜiPhoneだと使ってしまうのか(3)〜

なぜiPhoneだと使ってしまうのか、ということは、iPhoneを手にしてからずっと考え続けているテーマで、これまでに2回*1 *2、このブログでもエントリーを立てた。

前2回に書いたデザインや機能面のことに加えて、モノが提供する価値の種類の違いが、使い方の違いを生んでいるのではないか、というのが、最近気づいたことだ。

一方に「安心・安全・誠実」という価値があり、それを体現しているのが”和式ケータイ”だ、と言ってもよいだろう。この価値は、少なくても日本国内では、携帯電話に限らず過剰になってコモディティ化してしまった感がある。日本人にとっては、そうであって”当たり前”になってしまったのだ。

他方、こうした価値の対極にあるものとして「面白さ・(ある種の)スリル」という価値があり、iPhoneが提供しているのはこの価値なのではないか、と思う。

面白さやスリルを求めるなら、おのずと使い方も、慣習的なやり方ではなく様々に試行錯誤してみる、ということになっていくことが自然だし、そこから新たな使い方が生まれ、同じく面白さやスリルを求めているユーザーにそれが広まって、最後には作り手にフィードバックされていく、という循環が生まれやすい。それは、どちらかと言えばマイナス面に目が行きがちになり、作り手へのフィードバックもマイナス面を潰す方向=クレームといった形になりやすいと考えられる、前者の価値観が生み出す循環とは対象的なのではないか。

もちろん、いずれの価値を重要と思うかは人それぞれであって、どちらが正しいということではない。ユーザーにすれば、どちらも兼ね備えてくれているのがベストなのだが、携帯電話に限らず、なかなかそうは行かないのが世の常である。

考えてみると、最近よく話題に出てくる”モンスター○○○”とか、非生産的な”クレーマー”といった類の人々は、日本で異常繁殖した「安心・安全・誠実」というコモディティを食べて生きているような気がする。それでもなお、このコモディティ化した価値をさらに繁殖させること(だけ)を、多くの日本のモノづくり企業は目指しているように感じる。

一方で、壊れたり故障したり不具合が出て当たり前のiPhone。そのこと自体は、決してほめられたものではないが、「安心・安全・誠実」なケータイには望むべくもない「面白さ・スリル」を提供している。訴訟社会と言われるアメリカで生まれた製品だが、iPhoneの”取り説”に相当するリーフレットは、日本のケータイより遥かに薄く、注意書きなども少ない(小さい)ことが象徴的である。

これは、取り説などに注意事項をはじめとして事細かに書くことを「誠実」と感じる価値観と、大多数の人が読みもしないことを書き並べることを「不誠実」だと感じる価値観の差、と言ってもいいのかもしれない。

携帯業界への公取の指導をみても、日本全体としては前者に傾いていると言えると思う。むろん、誤認を招くような表記をするべきではないので、取り説の問題と公取が指導した広告の問題を同列に扱うべきではない。

ただ、そういう日本全体の傾向に、潜在的であれ息苦しさを感じる人はiPhoneの提供する価値を評価しやすくなるだろうし、この傾向になじんでいる人は、iPhoneに対する違和感や場合によっては嫌悪感すら感じているのだろうな、と思う。

iPhoneが体現する価値観は万人向けではないかもしれないが、”万人”と言ったときに想定される”マス”の存在が怪しくなっている時代には、公序良俗に触れるのではない限り、様々な特定の価値観にフォーカスしたモノ作りがあってもよいのではないかと思うのだ。最低限の安全性は法律が担保しているわけだから、そこをクリアすればもっと奔放なモノづくりがあってよいし、それが出来ないというなら、その理由を考えることには意義があると思う。これは、何も携帯端末に限った話ではないだろう。