いま、日本の携帯電話を取り巻く3つの課題

ロンドンからの機内で、日本の新聞を手にしてしまったことがいけなかったのかもしれない。そこには、こんな東京都教育委員会の広告が載っていた。(機内でiPhoneを使って撮影した*1ものなので、写真が相当ひどいものであることはお許しいただきたい。)

これを見た瞬間に私が思ったことは、この広告のキャッチコピーになぞらえるなら「本当に必要ないですか?子供にケータイ教育。」ということだ。

バルセロナでモバイルワールドコングレス(MWC)の会場を歩いて以降、もやもやと感じていた日本の携帯電話をとりまく課題が、この広告に対する何ともいえない納得のいかなさに触発されて、教育の問題に限らず整理できたので、書き留めておきたい。


バルセロナ、そしてその帰路に立ち寄ったロンドンの感想として、ますます日本のケータイを取り巻く状況のすべてと、世界の距離はどんどん開いていっているのではないか、という懸念を強くした。それは、技術の問題というよりは、マーケットをどこにどう作るのか、戦いの土俵はどこなのか、という、むしろ(人的なという意味で)政治的な面で、日本のケータイ業界が戦いにくい場所にどんどん土俵が移っていってしまっているのではないか、という懸念である。

これは、”ガラパゴス”といわれた状況がどちらかというと技術やハードの側面、いいかえれば理系の領域に主にフォーカスされて言われたように私は感じているのだが、それとはちがって、文系の領域での課題がメインになる。

以下、端末メーカー、キャリア、ユーザーの3つのプレーヤーそれぞれの課題に分けて考えてみたい。


1)端末メーカーの課題

MWCの会場に来ている人は基本的に業界関係者で一般ユーザーは来場しないため、数年前から、かなりの人がブラックベリーか、Windows Mobileなどのスマートフォンを手にしていることが多かった。携帯業界関係者に限らず欧米のビジネスマン、特に上層部の人間ほどそうだ。今年もその傾向は変わらないが、この傾向が一般のユーザーに拡大していきそうな兆候がある。ロンドンでは、キャリアのオレンジが、プリペイドユーザーにもブラックベリーを提供し始めていて、バスの車体や地下鉄の駅構内で広告キャンペーンを展開しているのを見かけた。

経済減速の影響を受け、スマートフォンユーザーを一般ユーザーにも拡大したいというメーカーの意向と、iPhoneによってビジネスではなくエンターテイメントの面でもスマートフォンが優れたツールであるという認識が醸成されつつあるという社会状況が、多くの一般ユーザーを、従来型の端末からスマートフォンに移行させる契機となる可能性はある。

オレンジの広告を見てもわかる通り、液晶画面に入っているロゴはFacebookを筆頭に、ビジネス向けのサービスではなく、プライベート向けのもの、ちょっと前まではPCで使われていたものばかりだ。それをスマートフォンで使いましょう、という提案なのである。

そう考えると、いわば従来型端末の最高峰として、日本の一般的な端末は、このままでは、そもそも戦いの土俵を失うことにならないだろうか。確かに技術力もあり性能も高いが、スマートフォンが備えているようなインターネットとの親和性からは遠い。クルマで例えるなら、日本の端末はポルシェのエンジンを積んだカローラだが、これからの一般ユーザーが求めるのは、カローラのエンジンを積んだポルシェになってくるのかもしれない。

そういう風向きの変化が定着するのだとしたら、日本の端末をアレンジしても海外では売れないことになる。そうなったら端末の進化の方向を、現在の日本市場向けとは違えなければならない、ということに、かなり自覚的であることが求められるだろう。

メーカーは、理系の側面=エンジン(技術)にばかり目がいっている印象があるが、ユーザーにとっては、日本メーカーの”エンジン”が優秀であることは暗黙の前提なのであり、大衆車カローラの堅実な印象よりも、ポルシェの車体の優美さ、文系的なセンスが欲しい段階にきているように思うのだ。


2)キャリアの課題

先月のアメリカ出張以来、現地キャリアのプリペイドSIMカードを使い、アンドロイド機(ADP1)でメールやwebはもちろん、地図やストリートビューTwitterなどのデータ通信サービスを活用することで、現地の滞在時間を一層効率的に活かすことが出来るようになっている、という実感がある。今回も、スペイン、イギリスでSIMを購入して試用してみた。

そうやってみて気づくのは、アメリカ、スペイン、イギリスと、それぞれのキャリアでサービスや料金は違うものの、いずれもSIMの入手は旅行者でも簡単で、料金も安く、またチャージも簡単、きわめて使い勝手がよい、ということ。大雑把にいって、1日あたり最大で1000円もあれば、上に書いたようなデータ通信系のサービスを存分に、国やキャリアによっては無制限に使えてしまうということなのだ。1週間滞在したとしても、トータルの通信コストは、データに限ればまず1万円までに達しないだろう。チャージも、電話、web、商店でのカード購入、ケータイショップ店頭、と様々な手段があり、そのときのユーザーの状況に応じて最適なものを選択することができる。

そのうえ、例えばイギリスのボーダフォンは、プリペイドSIMカードを日本でもソフトバンクローミングで使うことができて、その場合、データ通信料の上限額は、1日5ポンド(現在のレートで700円弱)という安さなのだ。海外キャリアは、プリペイドユーザーを満足させて使い続けさせる商品とサービスをちゃんと用意している。

犯罪に利用されるから、というような口実で、日本のプリペイドケータイサービスは衰弱してしまっているが、プリペイドケータイは、後述する子供のケータイ教育問題を解決する一助となる可能性を秘めているし、数は少ないかもしれないが、将来増えてくるであろうスマートフォンを旅行ガイド代わりに旅する人にも使ってもらえ、キャリアにとってプラスの収入になるはずだ。また、労働力として海外の人を日本が多数受け入れるようなことになったら、そうした人々をユーザーとして取り込むには、プリペイドサービスが最も適しているだろう。

将来にわたって、日本の市場が変化しない保証はない。国内キャリア同士の競争に終始しがちだが、海外キャリアがどのようなビジネスをしているのかにも目を向けておくべきだろうし、そこに、国内の競争を有利に進めるヒントだってあるはずなのだ。


3)ユーザーの課題

冒頭にあげた広告の、具体的な教育委員会の提言は、下の通りだ。

ここに書いてあることが、その通りに実現するとどうなるか。こどもたちが”おとな”に仲間入りしたとたんに、ケータイの世界に免疫も土地勘もないままに放り出される、ということだ。今の子供たちが、将来ケータイのない世界で生きていけるのならよいが、そういう未来を想像できるだろうか。

そもそも、ここに書かれていること自体が矛盾しているのだ。子供が”自分で自分の身を守る力をつける”には、ケータイを使わせなければならないのに、禁止しろという。無菌室に放り込んでおいて免疫をつけろと言っている矛盾に気がついていないのだろうか。


この問題については、大阪府でケータイ禁止令が出たときにも言及した。

麻薬のように、害悪しかないものなら徹底的に禁止するべきだろうが、ケータイは毒にも薬にもなる。むしろ、日々の生活を豊かに生きていくためのツールにするべき存在だろう。そうなら、小さいうちから適切な使い方を教育して、有効に生かしていくべきものなのではないか。それは、子供たちに刃物の使い方を教えることと似ていると思う。包丁で人を殺す輩もいるが、だからといって包丁を子供に使わせるのを禁止しようという議論は聞いたことがない。慎重に使い方を教えるのが、親であり学校の授業である。それと同じことをケータイではやろうとしないのは、大人の教育責任の放棄であり、教育することを業とするはずの教育委員会が写真のような広告をするのは、自らの存在意義を否定するに等しいとも思うのだが、どうだろうか。

また、行政が生活に根付いたものを禁止したり制限したりすると思わぬ副作用を生むことは、古今東西の歴史が証明するところだ*2。それに、一大産業となった携帯電話業界に対して、こうした広告は官製不況をもたらす可能性があることにも注意したい。この広告の費用は、企業や個人の税金から出ているのであり、その税金は不況によって少なくなるのだということも指摘しておく。

子供たちにプリペイドのケータイを与え、小遣いの中からチャージして使わせれば、自ずと使い過ぎに注意することになる。

大人たちが、子供に夜道の危険性を教えるようにケータイの世界の危ない場所を教え、暗い道をパトロールするようにケータイの世界の子供たちの居場所に目を配る。そして、ケータイのすばらしい使い方、知的好奇心を高めるようなケータイサイトの存在を教えていくなら、ケータイの世界は、すばらしさも危なさも、現実の世界と同じになるはずだろう。

本当に日本の子供たちの将来を考えるなら、彼らに世界の同年代の子供たちと同じかそれ以上の教育を与えていく必要がある。そうであるなら、ケータイを教育の敵にしていては遅れをとる可能性が高い。

フィルタリングよりもプリペイドケータイを充実させること、1人1台のパソコンと同じ使い方ができるスマートフォンを、教育的配慮のもとに使わせること。それが、今の時点で考えうる、子供とケータイの教育的配慮にもとづいた関係であり、これはユーザーである私たち全体がどのような世論を形成するか、という問題なのである。

*1:もちろん、機内モードで使用。

*2:以前のエントリーにも書いたが、アメリカの禁酒法がマフィアの暗躍を招き、都立高校の学校群制度による受験競争緩和策が都立高校に地盤沈下と私立高校の受験競争激化を招いた。